今日ご紹介するのはXTCのPlaygroundという曲です。
パンク全盛期にニューウェーブとして出てきた、オルタナティブロックの先駆け的バンドです。オーケストレーションのアルバムを作ったのですがオーケストラを雇うのは馬鹿高いからと、鍵盤弾きでもないのにエミュレーターでオーケストレーションを作ったり、それに飽きたらギターに戻ったりと試行錯誤を通じていろいろな顔があるバンドです。いけてないヒト代表です。
歌詞は変化球が多いですねぇ。基本中の基本のような、最後に「そこ行くの?」的なオチがあったりw
なんかひねくれたユーモアがあります。
バンドのリーダーはかなり鬱屈した幼少期、少年時代を過ごしたそうでその影響なんでしょうね。ガリガリで根暗な少年だったんだそうです。「杖」ってあだ名だったそうですよ。学校の一軍グループからいじられ続けた結果なんでしょう。
この歌の歌詞でも出てくるんですが、学校の中での階層構造は、社会に出てもずっと続くんだとリーダーのアンディは言っています。これからもずっといじめられるのかと怒りがこみ上げてきたそうです。
そして学校は一番大事なことを教えてくれない。一番大事なのは「疑問を持つ」ということだと。疑問を持つとやっかいもの扱いされる。そんな社会へのメッセージの歌です。
Playgroundというのは文字通り訳すと、「遊び場、校庭」という意味ですが、ここでは「学校」、授業以外の学校生活、生徒同士の子供の社会という意味だと思います。大人の世界との対比としての子供の世界のことだと思います。
学校では大人になる準備をするわけですが、それは授業で勉強するだけではなく、子供同士の社会生活の中で社会での立ち回りは上下関係を身につけていく、遊び場、練習場としての学校での立場は、大人になって本番の社会に出てからも変わらない。というなんというか身も蓋もない話です。
この曲を書いたアンディにとって、つらい学校時代だったのでしょうね。「学校を出たらあの恐ろしいいじめっ子たちとは別れられる!」と思っていたのでしょうが、そうは問屋が卸さなかったんでしょう。新しい人たちとの生活が始まっても、同じ立場になってしまう。
それをアンディがどう思っているのかはボクにもわかりません。だから子供のうちから頑張ろう!とはどうも思ってないようなんですけど、だから仕方ないよ、がんばっても無駄だよ、と人生を捨てているわけでもないと思います。でもじゃぁ何?と言われるとわかりません。
さて、学校は一生ついて回るなんですけど、ボクの場合、40代くらいから小学校中学校の同窓会をよくやるようになりました。幼稚園から中学まで、そして半数以上が同じ高校に行くので長い友人とは15年をともに過ごした幼なじみなのでもうほとんど家族です。兄弟姉妹だとボクは思っています。
ボクは子供のころからイケイケ系ではあったのですが、その立ち位置は彼らとの関係では今でも変わりません。みんなで飲み会しよう!と言って集める言い出しっぺは大体ボクですw
10人以上のお医者さんや、上場企業の役員、学校の先生になった多くの同級生など社会的な立場が今どうであろうと、学校時代のヒエラルキー、役割は今でも全く変わっていません。
ボクはこの歌を聴くと、楽しかった学校の思い出はいくつになっても変わらないという印象を持ちます。
でも多分いじめられっ子だったこの曲の作者のメッセージは違うものだと思います。
意地でも同窓会には絶対出てこない人たちの気持ちの代弁者なんだと思います。
さて、ボクにとって「いつまで、どこまで」がPlaygroundか?とい質問がありました。
ボクにとって「今でも」、「すべてが」Playgroundです。今はなかなか外に出ることが難しいんですが、ボクはThe world is my backyard. 「ボクにとって世界は裏庭だ」と思っています。
よく言ってるんですが、ボクは蟻とキリギリスのキリギリスです。キリギリスは自分の好きなことをやっているから毎日が楽しいんです。仕事をしていても、それが自分の中で楽しいことであると消化する術を「遊び場」で学びました。だから毎日が楽しいんです。世界のどこで何をしても、というか、「何を」はそもそも楽しいと思わなかったらちゃちゃっと済ませてしまって楽しいことをしようと思って生きています。
「いやなことは手短にさっさと終わらせ、好きなことは飽きるまで」
と生きているので、ボクは死ぬまでPlaygroundで遊んでると思います。Playgroundは、自分が思えば世界中どこでもPlaygroundじゃないんでしょうかね?
こういうキリギリスみたいな生き方、キリギリスとして社会の役に立つのならキリギリスでいいじゃないかをビジネスアビーではみなさんにも説いています。